コロナ禍により、2年にわたり蟄居状態であった自治会活動も、感染者激減を受けて、警戒しつつ活動を再開。「氷川台自治会いきいき倶楽部」のイベント部門では、「市内散策」が先陣を切って試験的に少人数で実施しました。各所での説明は世話人の馬場さんが自ら務め、その博識で興味が一層深まります。
ポスター
良い天気に恵まれ、皆さん元気です
小山台遊園を出発した参加者9名は、7分ほどで氷川神社へ。50年前、「北多摩郡久留米町小山台」から「東久留米市氷川台」と名を変える際のもとになった神社と言われています。
氷川神社で、まずはお参り
須佐之男命(スサノオノミコト)を祭神とする氷川神社は、埼玉県さいたま市にある氷川神社を一宮として、関東の荒川と多摩川に挟まれた地域に300社ほどがあるといわれ、出雲との関係も深いようです。東久留米にも何社もあり、ここから徒歩20分圏内に4社あります。
ここの神社の由緒はあまりはっきりしていないようです。神社奥の小高い場所にはいくつかの石碑がありますが、皆さんは、神社には来たことがあるがこれらの石碑は初めて見たと口をそろえました。
真新しい「素盞嗚命(スサノオノミコト=日本書紀表示)の石碑と、何やら不気味な石像が・・・
門前には須佐之男命(古事記表示) の詠んだ和歌が貼られていました、日本で初めて詠まれた和歌だとか・・・
氷川台から5分ほどで黒目川沿いの「厳島神社」へ。本社は日本三景のひとつ「安芸の宮島」にあり、祭神は市杵島姫(イチキシマヒメ)ですが、末社の多くは市杵島姫と習合した弁財天を祀っています。ここも、鳥居の扁額には「弁財天」と彫られています。
この神社は小さな森の中にあり、あまり参拝の人影を見ませんが、社再建の記念碑には何10人もの氏子名が刻まれています。歴史も古いようで、江戸中期の文献にも記されているそうです。また、多くの厳島神社は「島」に建てられており、ここも周囲が堀のような作りになっています。もっとも水がたまることは稀のようです。
社の前で・・・ここに来たことのある人は2人だけでした、皆さん、何となく深遠な感じがすると・・・
再建記念碑に見入ります
社を出て黒目川を渡り、浄牧院へ。ここは曹洞宗の寺院ですが、「東久留米七福神巡り」の大黒天が祀られており、また葬儀会場施設があるため、参加者の皆さんも何度も足を運んでいます。8月に逝去した自治会の殿田顧問の葬儀もここで営まれました。
社務所の玄関に大黒天が安置されています。
珍しい「三面大黒天」・・・正面:大黒天・向かって左:毘沙門天・右:弁財天・・・七福神のうちインド由来の3神
本堂の裏手に五百羅漢石像があります。きれいに手入れされた中庭の横を通って奥に進むと整然と並んだ石像が見えてきました。ほぼ同様の大きさに彫られた石像には、1体1体羅漢様の名が台座に刻まれています。「羅漢(阿羅漢)」とは「悟りを開いた人」という意味です。お釈迦様が入滅して2か月後に500人の弟子たちが集まって釈迦の教えが間違った解釈をされないように会議を開きます。これを仏教用語で「結集(けつじゅう)」と言います。これにちなんで、後に中国で像が作られるようになったと言われています。
浄牧院の五百羅漢像は現代のものですが、それぞれ異なった姿勢・表情をしており、中には赤子を抱いているものもあり、見飽きることはありません。参加の皆さんは、こんな石像があることを誰も知らなかったようです。
熱心に見て回ります
マスクを外して集合写真
寺の許可をいただき、墓地に入り旗本の墓所・墓石を見学しました。江戸時代、幕府に仕えた侍のうち、知行1万石以上を「大名」と言い、それ未満を「旗本」と呼びました。あまり見る機会がありませんが、ここには「神谷家」「鈴木家」2旗本家の墓があり、いずれも市指定文化財になっています。
旗本墓の前で
神谷家墓
浄牧院を最後に「第3回市内散策」は終了しました。今回、コロナ禍後の試験的開催ということで、参加者9名はほどほどの規模でした。また、予定していた1時間20分を大幅に超え、2時間超になりましたが、これは、身近にあるのに初めて知ったものが多かったこともありますが、長期間の逼塞から解放され、知人との会話が弾んだことも大きな要因でしょう。それほど2年に及ぶコロナ禍が重圧になっていたのでしょう。
自治会では「オレンジカフェ」「ふれあいサロン」も再開、また「麻雀教室」等も再開して、徐々に
コロナ前に戻りつつあります。コロナ第6波が来ないことを願いつつ。
氷川台自治会